<機関誌2001年3月号巻頭言>


今も私を支えているもの



          (財)日本ハンドボール協会理事  金原 至
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 有磯の海を眺め下ろすようにして連なる山脈は、私に限りない郷愁を呼び覚ま
し、今でもあのうっそうとした木立の中から子供のころの私たちの声が聞こえて
くるような気がする。

 私の育った一刎の村は、昭和15年頃は人口 700人、小学生は90人、同級生は21
名であった。我々は6年生の一人を大将にして、時間の経つのを忘れて山々を駆
け回って遊んだ。どの木もどの木も子供の手によって触られ、なでられ揺さぶら
れた木であり、足を訓かけて木登りしたものである。春にはわらびの出場所は知
っていたし、夏には昆虫の居場所や、蚊の出没も予感できた。秋には栗拾い、き
のこ狩りと子供ながらに大人から伝授されたり、自分たちで探した宝庫を持って
いた。冬の竹スキーも痛快であり、雪道の落とし穴作りの悪戯も、子供の喝采を
浴びる遊びであった。春夏秋冬の移り変わりの中で工夫された遊びは、子供の感
覚を刺激し磨き、鍛え上げていった。敏しょうな行動は子供同士の競争から養わ
れていった。体が小さくても負けたくない、一番乗りをしたいという子供心は、
体を操る能力を磨き、反応時間を早くし、障害をするっとくぐり抜けるすばやさ
を作り上げた。一刎の山々を我がもの顔に駆け回った遊びが、私の運動神経を鋭
くさせ、小さい体に自信をもたせた。

 また、村の子供が、ガキ大将の後ろについて歩く姿は、まさに小さな軍隊の行
進のようであった。ガキ大将の統率力を見ながら、子供ながらに大将の資格の如
何なるものかを積み上げていった。力と技と心の兼ね備えた者への称賛の心を育
てていったのである。

 氷見では俗に言う山の学校、氷見中学に入学し、ひき続き高校となリ6年間在
学することになった。その間、ハンドボールに興味をもった同士が全国大会出場
を目指し、泥をなめ地面をはいずるような過酷な練習を自分たちで強いて青春時
代をおくるようになった。仲間は15人、指導者のいない部活動、そして主将に選
ばれたのがこの私。15人の中には勉強もできるし、人望の厚い者もいたのに、ど
うして私が選ばれたのか。言うなればガキ大将の到来でしかなかったと思ってい
る。「勝つ」ことしか考えなかった。勝つためには敵なしである。いずれにせよ、
15人の者はすばらしい仲間であった。仲間に恵まれ支えられていた。星を見なが
ら帰ることに無上の喜びを感じ、すき腹を満たすのに体裁をかまれずハシゴした
仲間、「勝つか、負けるか」しか考えず、裸足でも全国大会なるものに出場しよ
うと意気込んだ輩でもあった。指導者がいないので手さぐりの練習。今でいう科
学的練習には縁遠い。役立つのは幼少から養った勘のみ。クラウンドに響くのは、
走れ、投げろ、まかしとけ、やったぞ、と仲間の怒声と歓喜の声だけ。そして少
しずつ知恵を絞り練習して作り上げた手作りのハンドボール。これを引っさげて
全国大会に出場した感激は筆舌に尽くせない。まさに青春したのである。

 これをきっかけに、私の人生は 180度回転し、大学に進学、卒業後母校で生徒
と再びハンドボールに明け暮れ、幸いにも「日本一」を勝ち取る幸せ者になれた。

 大学ではすばらしい指導者や先輩に巡り会えた。渇望している者に水、汲めど
も尽きせぬ奥深さをもった指導者に恵まれた。さらに、よき先輩、よき同僚、こ
の経験が私に教鞭をとらせ、ハンドボールヘとかきたてたと思っている。

 一刎の村で遊びたいだけ遊んで磨かれた感覚、15名の仲間ががっちリスクラム
組んで励んだ氷見高校時代、そしてハンドボールー途に没頭した青春の力こそ、
現在の私を作り育ててくれたと痛切に感じている今日この頃である。


    (財)日本ハンドボール協会機関誌「ハンドボール」3月号より転載