―このたびは、先陣を切ってご登場いただき、ありがとうございます。
私がハンドボールをプレーしたのは、中学校での2年間のみ。途中脱藩者のようなもので、みなさんに語るほどの経験も実績もありません。
それでも、私の名字をローマ字にすると「OKU」だからではありませんが、頼まれるとNOとは言えず “オーケー you” と言ってしまう性格なもので、トップバッターを務めさせてもらいます。誠に光栄です。
―ハンドボールとの出会いからお聞かせください。
京都の私立で中高一貫校の洛星に入学したのが1957年(昭和32)のこと。私が6期生でしたから、まだ高校を卒業した先輩がいない時代でした。
1年生の途中からクラブ活動が始まり、最初は知り合いの先輩がいたバレーボール部に入部しました。入学した年の12月か年明け1月ごろだったでしょうか、京都学芸大(現・京都教育大)を1955年(昭和30)に卒業したばかりで、現役選手としてハンドボールのプレーもしていた体育教官の小西博喜先生から「ハンドボールをやらないか」と誘われたのが最初です。
―それまでハンドボールにはどのようなイメージを抱かれていましたか。
ハンドボール部の先輩たちは、日曜日に行われた大会で優勝し、月曜日の学校の朝礼で表彰されていましたから、洛星のハンドボール部が強い、ということは入学当初から知っています。強い、ということは少年期には憧れではありますが、反面先輩たちは結構ガラが悪く、激しいスポーツ、という正負両面のイメージをハンドボールに持っていました。
それでも、小西先生からの誘いは「(ハンドボールを)やれ!!」に近いものでしたし、強さへのより強い魅力もあり、転部を決意。同じく小西先生から誘われた山口栄一君(京都大学体育会ハンドボール部、17代キャプテン)とともに、仲間集めからスタートし、比較的体が強そうで、運動神経の良い同級生に声をかけました。
―昭和32、33年あたりとなりますと、ハンドボールが11人制の時代ですね。
否、当時のハンドボールは、高校生からが11人制で、その前段階の中学生は今と同じ7人制、という時代です。(※)
―練習や上下関係などは厳しかったのでしょうか。
小西先生も熱心で、厳しいと感じたことは無く、練習していても楽しかったですね。2年生になった4月、ぶっつけ本番のような状態で京都の新人戦に臨みました。ユニフォームはありません。それぞれの白系のスポーツシャツにゼッケンを縫い付けてコートに向かいました。この大会でスイスイと勝ち上がり優勝。初めて勝ち取った優勝で自信がつき、いっそうやる気が湧いてきて、毎日のようにグランドで練習に明け暮れました。
小西先生からは正攻法と共にフェイントや右足ジャンプからのシュートを伝授してもらいました。センターという要のポジションを任され、ウイングプレーヤーの山口君と作戦を練りながら臨んだ大会では、参加チーム数こそ少なかった時代ですが、京都で負けたことがありません。
―当時のエピソードや今もよみがえる思い出をお聞かせください。
真夏の炎天下で先輩から課された100本ノック。それをクリアしてから、氷水に砂糖をかけたり、かち割りにして食べるのが唯一の楽しみだったことも思い返されます。
3年生になってからは、大阪、神戸との3都市による大会にも出場し、優勝しました。京都で優勝して近畿大会にも出場したのですが、この大会で浜の宮中(兵庫)との対戦では、私が徹底したマークにあい絶不調で惜敗。京都で楽勝していたこともあるのでしょうが、平常心を保てず、今でも「あの時はどうしたんだろう…」と思い返されるほどの、一番悔しい経験をしました。3年生の冬、高校、大学、一般と全カテゴリーが集う京都の大会で平安高校に惜敗したのが中学最後のゲームとなりました。
―高校ではハンドボールを続けられなかったのですね
中学生時代、11人制の高校生の練習を手伝ったことがありますが、あの大きなボールが水を含んだ時の重さを実感すると、身長164cmで手も小さい私には、「フォワード(センター)はできない」という不安に包まれ、大学進学も考えて高校でのプレーを断念しました。今から思えば、やっておけばと思うのですが。山口君らハンドボールを続けた勇気ある同級生は、高校でインターハイ、国体に出場しています。
―ハンドボールの魅力、おもしろさはどんなところでしょうか。
体格が同じなら技で。技が同じなら心でと、複数の人間が「勝とう」「勝ってみよう」の思いを胸に、1つのボールを追い、1つのボールが点数になり、心を1つにする。2年だけのプレー経験ですが、本当にハンドボールはおもしろかったし、色々な経験を糧にさせてくれました。
―次代を担う若いプレーヤーへのメッセージをお願いします。
これからのハンドボール界を担う若いみなさんには、真っ当にハンドボールに取り組んで心技体を鍛え、相手もあることですから試合に負けることもありますが、勝つ喜びを正々堂々と味わってほしいです。負けても勝っても、「なぜ負けた」、「なぜ勝った」、「次に何を鍛えたらいいか」の姿勢も大切にしてほしいと思います。
―ハンドボール界への提言もいただけますか。
銀行の国際部担当副頭取、頭取時代にヨーロッパ各国に出向いていたころ、中継地のフランクフルト空港にあるテレビでハンドボールの試合が流れていました。コートはカラフルで、会場は満員。選手たちの背は高く、スピーディーで、ボールさばきも僕のイメージとは全然違い、「これがハンドボールか」と唸らされたものです。
ハンドボールの現状、世界の中での日本の立ち位置など、よく把握していませんが、残念ながらテレビの中に日本人選手はいませんでした。日本人選手は、国内でプレーするだけでなく、もっと多くのプレーヤーが海外で武者修行をして揉まれるべきでしょう。世界の一流レベルの選手たちと混ざってプレーできる日本人選手が増えることが大事だと思います。
もし、それをやりにくくさせているシステムがあるならば取り除く。世界と対等に戦い、勝つという目標から逆算し、障害となるものは除いていくべきでしょう。
外と競争し共生する、という面なしでは、企業もやっていけない時代ですから。
―本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。